文系の夫

文系は作者の気持ちでも考えとくわ


文系は作者の気持ちでも考えとくわ

言葉が零れてゆく時も

 近頃、心身ともにめっきり調子が悪く、積ん読が減らないどころか増加の一途を辿っている。学生時代(文学部)から「迷ったら買う」という行動原理だけは一貫しているが、本を読む体力と集中力は随分落ちた。実用書であれ文芸書であれ、凡そ興味を持てない。持つことが難しい。

 学生時代に「ポケットモンスター」の新作が発売されて、懐かしさから、バイトが休みになる大晦日、正月三ヶ日にニンテンドー DS とソフトを購入した。(私は初代ポケモン世代だ。)しかし、一人目のジムリーダーまでに完全に飽きてしまって、結局クリアは愚か、1 月 1 日の午前中に投げ出してしまったことを覚えている。ポケモンの内容は、予測可能なものだった。あのとき「ああ、年を取ってゲームをクリア(プレー)する好奇心と根気を喪ったてしまった。」と自覚した。同じゲームを何周もしていた十代(ローティーン)の頃の自分はもう死んだのだと。そんなときでも小説ぐらいは読めて、結局、年末年始の休み中に『高慢と偏見』か何かを読んだ気がする。それも原書で。『高慢と偏見』も全く退屈な小説だが、オースティンの作品を読んだのは初めてだったので、まだ退屈ではなかったらしい。

 さて、本を読めなくなった現在の自分は、ポケモンをプレー出来なくなった数年前の自分の相似形…相似拡大のようなものだと思う。「時間と体力がなくなった」と書くと不可抗力のように見えるが、結局は、知的好奇心が枯渇してしまったのだと思う。ショックだったのは、最近はコミックスさえろくすっぽ読むことが出来なくなったことで『キングダム』の最新巻も途中で止まってしまっている。オトナになって、色々なことが自分の予想の範囲に収まるようになってきて、色々なことに対して興味を持つことが難しくなってきた。(「キングダム」は(中国史の知識がないので)予想は付かないが、前巻から三ヶ月経っているので、内容を忘れてしまった。)

 初対面の人でも、なんとなく「この人はこういう人なんだろうなあ」と思っていたら、間も無く「そういう人だった」ということが判る。未体験のことでも、なんとなく「こういう結果になるんだろうなあ」と思っていたら、程なくして「そういう結果」になる。そんな体験が積み重なるたびに、自分の予測能力の精度の高さに嫌気が差して、セカイが詰まらなくなる。

 賢く生まれたと思いたいけども、予測能力が発揮されるのは、具体的な INPUT が与えられたときだけで、しかもそれは、殆どの場合、悪い結果の予想が的中するに過ぎない。だから、「先見の明」のような褒められる予測能力ではなくて、危険察知能力のようなものだ。多分、賢く生まれたのではなくて、20 代から今までの人生が結構ハードだったから、身に降りかかる大概の不幸を体験し尽くしたのかもしれない。だから、不幸の予測精度が高く、そのせいでこのセカイへの関心を喪っているのだろう。

 母校の文学部で身に付いた「教育・教養」の一つとして「小説の主人公は、殆ど 100 % 『ダメな人』」というものがある。「ダメな人」の定義は曖昧だが、ここでは「社会と折り合いが付かない人」とでもしておく。社会と折り合いが付かない自分が、社会と折り合いが付かない人の物語を読んでも、それは予想の範疇に収まってしまう。そうなると、テクストを追う手間が、ただの徒労に思えてしまって、読んだ傍から言葉が零れてゆき、やがてページを繰る手が止まってしまうのだろう。

 でも、言葉が零れてゆく時も、何らかのテクストを頭に通過させた方が良いと思っている。そのうちの 1 % でも自分の血肉に、知識になれば良いのではないか。食べ物だって、栄養になるのはごく一部なのだから、活字が知識になれる量なんて高が知れている。

 こうして書いてみて、自分への処方箋が出せるところまでは来た。薄い本を読もう。(同人誌という意味ではなくて)刺激の強い予想不可能な本を読もう。多分、この世界には自分の知らない positive なことがまだまだあるから、自分の知っている negative なセカイだけを見て物知り顔に不貞腐れるのは勿体無い。全く理論的ではないし、根拠もないけれども、無宗教の自分がそんな宗教みたいな楽観的観測を持ち続けているだけ、まだ救いはあると信じている。